くじら糖

Anti-Trench 向坂くじらです ある程度まとまった分量のことをかきます

「楽しいうちに」死ぬことを賢いなんて言わないでほしい - 不確定な未来を生きること

空気を「寒い」というより「つめたい」と感じるようになって、いよいよバイト先の塾が受験期に差しかかった。努力してきたという自覚がある生徒、そうでない生徒、それぞれが気持ちに揺れを抱える頃だ。

 

そんな中、男子生徒のひとりから、「あと一ヶ月では間に合いそうにないから、志望校のランクを下げたい」という相談を受けた。センター試験二日前のことだ。
彼の「いつか学歴で後悔するだろうとは思うんです」というコメントもあって、はじめのうちは「学歴でこんないい思いをしたよ!」という(品のない)話をしようかな、と思いながら聞いていた。が、そのうち気が変わってきた。
それで、「きみがこれから迎える一ヶ月は、これまできみが経験した一ヶ月と同じとは限らない。そして、これは私の個人的な経験則にすぎないけど、たぶんぜんぜんちがうんじゃないかな、と思う」と答えた。

 

受験勉強は、学習自体はもちろん、精神面でもなかなかしんどい。どういう道を辿っていても本番一回ですべてが決まってしまう(そのことについても賛否両論あると思う)、だから終わるまでは何に対しても確信を持てない、ということが、そのしんどさの源であると思う。

 

「過去問で合格点をとれたから本番もとれるだろう」
「あと一ヶ月あれば間に合うだろう」
「いまはできないことも、本番までにはできるようになるだろう」
と、信じるのはなかなか難しい。
これは単にネガティヴ思考に陥るというだけではない。「自分の不足を直視する」ということを、学力を上げる過程で避けては通れないからだ。だから努力すればするほど、「絶対受かる」という確信からは遠ざかっていく。

 

これがなかなかキツい。そりゃあそうだろう。不確定な未来のために努力しつづけなければならない状況に、ときに心が折れそうになることもあると思う。

 

しかし同時に、受験生はその不確定なことに身を預けなければいけない。あと一ヶ月で合格点に到達するとは限らないけれども、それでも到達させなければならない。自分がやり抜けるという確証はないけれど、それでもとりあえずはそれを前提においてみて、今日という日を生き抜かなければならない。
「やればできる」のような安易な精神論に聞こえるかもしれない。でも、そうではない。「やればできる」かは誰にもわからない。それなのに、やらなければできないことだけはほんとうなのだ。

 

そして、このことはときに、希望ではなく絶望としてのしかかってくる。その重みを、私たちは常に知っていなければならない、と思う。


今月の12日に、中学二年生の女の子が自殺したニュースを見た。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20170113-00000852-fnn-soci

「楽しいままで終わりたい」と遺書に書いたという彼女のことを、ときどき考える。妙に前向きに見えてしまうこの言葉、だがこれに勝る絶望はないのではないか。なにを見、どう考えて、この後の人生は楽しくなくなっていく一方だと確信したんだろうか。
死なないでほしかったと思うことは、私の偽善や身勝手にすぎないんだろうか。

 

そして、SNS上でこのニュースを取り上げては、

「賢い選択をした」
「論理的に正しい」
「なんて幸せなんだろう」
「自分もこうすればよかった」

とコメントする人たちを見た。

 

とても当たり前のことだけれど、未来が常に不確定なのは受験に限った話ではない。
行ってしまった彼女にとっても、きっと未来はいつも不確定で、それを不確定なままちょっと信じてみることが彼女にはむずかしかった。それで、未来は今より楽しくないと結論づけてしまった。

 

それを、本当に正しい選択と言ってしまっていいんだろうか。
私たちは彼女の死を前に、「これから楽しいことはもっともっとあったかもしれないのに、なんでやめてしまったんだ」と惜しまなければいけないんじゃないか。
「確かに大人になってしまったら楽しいことなんてない、だからこれは正しい選択だ」なんて言って彼女を指差すとき、そういう言葉こそが不確定だったはずの未来を黒く塗り込めてしまったことに、せめてもっと自覚的でないといけないんじゃないか。

 

そう、未来はいつも不確定だ。


そして、それが必ずしもいい方に転がらないということを私たちはすでによく知っている。だから、ときどきまったくの悲観に陥ってしまう。

そして、その悲観がときどき、誰かの命を奪ったりする。

 

詩の朗読の日本チャンピオンの大島健夫さんという方がいる。
彼の作品には、さみしい人、見捨てられた人がたくさん出てくる。奥さんを亡くした男、さびれた町の工場で働く男、家族も恋人もなくただ仕事をするだけの男。そのことについて、大島さんに直接尋ねる機会があった。

 

「どうして大島さんの作品にはさみしい人ばかり出てくるんですか?」

 

大島さんはすこし考えて、「基本的にこの世は絶望だけじゃないですか。」と答えた。

 

「絶望からすべてが始まる。そこで環境のせいにしたり人のせいにしたりせずに、どれだけ絶望しきることができるか。そこからがスタートだと思う」

 

いま私たちに必要なことは、何度でも降りかかる理不尽に、何度でも真摯に絶望し、そして何度でもふたたび不確定な未来を信じることのできる力なのではないか。

 

言っても言っても約束を破る人と、きょうも待ち合わせをする。子どものころ、大人になれるかもわからないのにさまざまな夢を見る。その日までに地震が来るかもしれないけれど、三ヶ月後のライブのチケットを予約する。あした死んでしまうかもしれない恋人と、いつか住みたい家の話をする。

 

そういうことを、ばかだと、論理的に正しくないと、誰も笑わないでほしいのだ。

 

とても怖いことだけれど、底の見えない空間に身を投げるように、私たちは不確定な毎日を生き延びていくしかないのだ。そしてそれはときに、まったく諦めてしまうよりも遥かにしんどいことだけど、それでも。

 

私の答えを聞いて、男子生徒はいまひとつ釈然としない顔で「そうですかねえ〜」とか言っていた。彼もまたいつか絶望からはじめていくしかない、それが、私には胸が痛い。結局、学歴がどうのとか勉強効率がどうのとかの話も付けくわえて、彼はなんとか机に戻っていった。
がんばれよ、と思う。

 

がんばれよ。これからきみに起こるかもしれないし起こらないかもしれない楽しいことを、それでも何回でも話すから。

 

がんばろうね。