くじら糖

Anti-Trench 向坂くじらです ある程度まとまった分量のことをかきます

紅茶の甘いののつめたいの

採用面接で一緒になった女の子が、「途上国に留学したことで、今まで持っていた『貧しくてかわいそう』というイメージが払拭され、『貧しいのに生き生きと暮らす人々がいる』ことを知りました」と話していた。私は留学経験がないのでわからないけれど、たぶん本当に心からおどろいたんだと思う、それが伝わってくる口ぶりだった。

 

貧しいからかわいそうなのではない、のと同時に生き生きしているからそれでいいわけでもない。問題はどこにでもいくらでもある。と、咄嗟に思ったけれど、それ以上に、「にんげんが生きている」というただそれだけのことさえ、私たちはともすると忘れてしまうんだろうか。

 

 

次の面接まで時間があったので上島珈琲に入った。前に並んでいるおじさんがかなりぶっきらぼうな声で注文する、それをカウンターの女の子がみょうに一生懸命な目で見かえしている。

 

「テイクアウトで、ぜんぶおおきいので」
「テイクアウトで、おおきいので」

 

「黒糖のあったかいの」
「黒糖のあったかいの」

 

「ブラックのつめたいの」
「ブラックのつめたいの」

 

女の子はなぜか、メニューを指さすおじさんの指といっしょに、いちいちおんなじリズムで声に出してくりかえす。

 

「紅茶のつめたいの」
「紅茶のつめたいの」

 

「紅茶の甘いののつめたいの」
「紅茶の甘いののつめたいの」

 

「あ、それからこの、期間限定のやつ、つめたいの」
「期間限定のやつ、つめたいの」

 

もちろんぜんぶ正式な商品名とは違うから、たとえば「黒糖ミルク珈琲のアイスですね」と聞き返してもいいところ、最後までそれで通してしまった。
おじさんの投げつけるような口調をコピーしているようにすら聞こえるけれど、でもやわらかい声だ。ちいさな子どもどうしが話しているみたいだった。つい気になってふたりを目で追う。

女の子はそのあと、商品をひとつずつお盆に乗せながら、「黒糖のあったかいの、ブラックのつめたいの」とまた同じことばでたしかめる。

 

「紅茶のつめたいの」
「うん」
「紅茶の、甘いののつめたいの」
「うん」

 

おじさんは相槌だけ打って、お礼もいわずにお盆をつかんで去っていった。


なにかひそやかで大切な場面に立ち会った感じがして、そわそわと女の子を見ると、名札に「研修中」とあった。
そうか、あまり仕事に慣れていないのか。それであのカタコトとカタコトみたいなコミュニケーションになったのかもしれない。
それにしてもあの、かぎりなく優しさに似た声色はなんだったんだろう。

 

なぜかいたく感じ入ってしまって自分のアイス珈琲をしばらく握っていたら、氷が溶けて、ころがる音がした。

 


発展途上国の人たちと日本の大学生が異質であるのと全く同様に、あの女の子とおじさんも異質だったような気がしている。
ゆとり世代だから、私たちひとりひとりがかけがえのない存在である、なんて言われ続けて育った。けれど、それはつまり、私たちのすべてが常に自分の中に異を抱えながら生きていかなければいけないということにほかならない。私はあなたとは違う、そのことが生きる希望になる日と、圧倒的な絶望感に変わる日とある。
それで、想像も及ばない環境にいる誰かのことを、だいたい忘れながら過ごす。「想像も及ばない」というと大げさだけど、想像力はひとりでにどこまでも行ってくれるわけじゃないから、想像が届かないことくらいいくらでもある。私もそうだ。


でも、ときどき他者がぬっと目の前に現れて、どうするかを迫られることがある。

そのときに、飲みものに名前をつけずに、ひとつずつ差し出すことができるか。

たぶん「優しくしてあげよう」と思っていたわけではない、ただ不慣れな接客にいっぱいいっぱいだっただけの彼女が、ふしぎに歌うようにおじさんに応えたこと、あれはまぎれもなく奇跡だったと思う。

そしてそれは、いつでも誰に対してもカタコトで語らなければいけない私たちのための奇跡だったような気がしている。