くじら糖

Anti-Trench 向坂くじらです ある程度まとまった分量のことをかきます

現実を見ようとするとは。大袈裟太郎さんに向けられた誹謗中傷への応答

現代記録作家でラッパーの大袈裟太郎さんが、取材先のCHOP(Capitol Hill Organized Protest)で暴行を受けた。彼はツイッター上に動画をアップロードしてそのことを報告している。以下に、当該ツイートとともに、動画で語られている内容の全文を書き起こす。

 

 

(以下書き起こし)

いま突然あの、ふざけて近寄ってきたと思った黒人男性にボコボコにぶん殴られて、ダッシュ、走って、逃げてきました。一応あの、ゲートキーパーとかに許可とって撮影してて、全然その、殴ってきた男性の写真も全然撮ってなかったんですけど、急に5,6発ボコボコにぶん殴られて、まあでもあのボランティアの人とかが集まってきてくれて、氷とか渡してくれて、あの一部そういう、薬物とかで、ちょっとinsaneというか、狂ったやつもいるから、本当に申し訳なかったって言って、いろんな人が謝ってくれて、ハグしてくれて、っていう感じですわ。(息切れ)CHOPに来て多分15分、滞在15分くらいで、ボッコボコにぶん殴られました。ちょっと、次からちゃんとずっと映像回しとこう、こういうことあるから。まあでも本当に、他の大多数の人がものすごい優しくケアしてくれて、マスクまでくれて、俺今日は帰るけど明日も来るよっていって、来るからっていったら、本当申し訳なかったなあって言って、抱きしめてくれたんで、はい、どうにかやっていきます。すいません、ちょっと現状報告でした。ありがとうございます。

(書き起こしここまで)

 

取材の背景には、白人警官が黒人男性を死なせた事件に起因する抗議運動によりシアトルの一地区から警官が撤退し、住民による自治区「CHOP(Capitol Hill Organized Protest = キャピトル・ヒル組織的抗議)」が生まれたこと、さらにそこで銃撃事件が起きたことがある。大袈裟さんは6/2に日本を出発し、6/4には白人警官による殺害事件が起きたミネアポリスに到着6/11にはホワイトハウスで行われるデモの取材のためワシントンDCに移る。6/21にCHOPで起きた銃撃事件の報を受け、6/22にはCHOPに入っている。暴行はその当日に起きている。

 

現在、暴行をきっかけに、大袈裟さんはSNSまとめサイトでの誹謗中傷を受けている。これ以降をフェアに書くため、読んでもらうために先に明言しておくと、彼はわたしの先輩にして友人である。そしてこの記事は誹謗中傷に対するリアクションとして書いている。

 

誹謗中傷の多くは、大袈裟さんが暴行を受けたことに対する嘲笑だ。

大袈裟さんのツイートにある「今から帰ります」という文面を、取材自体を取りやめるかのように誤読し、的外れに笑いものにするコメントも多い。また、動画で大袈裟さんが語っている「ケアしてくれた大多数の人」の存在を踏まえずに抗議活動を暴力的なものとして批難するものも目立つ。

そのため、この記事ではまず動画の書き起こし全文を掲載した。大袈裟さんは起きたことを言葉にする責任を果たし、さらに情報を後出しにせず一手で発信しているにもかかわらず、断片的な情報だけで誹謗中傷が行われるのはおかしい。実際、大袈裟さんは動画の中で語っている通り、翌日にはCHOPに戻り、取材を再開している。

 

また、大袈裟さんが暴行を受けたことそれ自体の事実性を疑う誹謗中傷もある。「殴られたときにちょうどよく氷を持っているわけがない」「氷で押さえていた箇所と翌日手当てしている箇所が違う」というような、"目ざとい指摘"調に書かれているものだ。氷に関しては、上記同様動画を見れば「現地のボランティアがくれた」と説明されているし、怪我の箇所については氷で押さえていた箇所以外にも負傷があったというごく単純な話にすぎない(氷で押さえていた箇所にも手当てはされている)。

それ以上に、大袈裟さんがミネアポリスの取材から徹底して「Black Lives Matterは暴力を肯定しているわけではない」と発信していたと知っていれば、わざわざ自分が暴行を受けたと騙る動機がないことは容易に想像がつく。むしろ、暴行を明らかにしたことが、彼の事実に対する誠実さを裏付けている。

 

 

ここまでは事実を前提にすれば不当な誹謗中傷であるとわかる。単なる情報の不足、無知によるリアクションだ。

 

しかし、それ以上に多く目につくのが、大袈裟さんの立場を冷笑するコメントである。

総括すると、彼らは「『Black Lives Matterは暴力を肯定していない』と言いながら殴られているなんて滑稽だ」、「黒人のために取材に行って黒人に殴られているなんて無様だ」というようなことを言っている。

まず第一に、ある暴力を受けた人を、暴力を受けたことそれ自体によって嘲笑してはいけない。それはいけないことだ。暴力を受けた人を嘲笑の対象にすることは、そもそもそれ自体が暴力の再生産であることに加え、「暴力を受けたと声を上げてはいけない」というメッセージを暗に発することでも結果的に暴力を肯定する。これはどんな暴力であっても同様で、また暴力の正当性や合理性とはまったく関係がない。ここまでは最低限のことではないか。

 

そして、この記事で考えてみたいのは、時に彼らのいう「現実」とはなんだろう、ということだ。

誹謗中傷の中には、「これが現実」「現実を思い知らされましたね」「きれいごとではなくて現実を」というような文言が非常に多い。ようは、彼らのイメージする「平和のために(考えなしに)活動している人には対処できないほど暴力的で、悲惨な現実」もっと言えば、「いかに歩み寄ろうと、他者同士はわかりあうことができないという現実」を、大袈裟さんが受けた暴行のなかに見ようとしているのだ。

しかし現実とはなにか。大袈裟さんがこれまで発信してきた、平和的なプロテストのために尽力する人たち、抗議活動で踊る人たち、殴られた大袈裟さんに駆け寄って氷とマスクを手渡してハグした人たちの存在を勘定に入れずに、なぜ暴力のこと、無理解のことだけが現実と名指されるのか。現実と呼ぶべきものはもっと多層で、複雑なのではないか。

良いことだけを見ようという楽観の態度ではない。大袈裟さんが暴行を受けたこともまた事実であり、しかしそれだけでは解釈しきれない多層な事実が並行して存在する、という当たり前のことを言っているだけだ。それだけのことに、どうして目を向けられないのか。

 

悲惨なことだけを現実と呼ぶ、という行為はさらに、言葉の側から現実を規定してしまう。現実の厳しさのようなものを言葉でもって代弁しようとするとき、その言葉こそが現実の厳しさそのものなのだ。「現実は厳しいものだから」「他者はわかりあえないものだから」というとき、まさにその発語が現実を厳しいものにしている。なぜ、悲惨なことを安易に現実と名づけてわかった気になったまま、その言葉を疑おうとせず、さらには他人に押しつけようとするのか。なぜすでに持っている言葉を更新し、それによって現実を更新することができないのか。

繰り返すがこれは悲惨なことは見ないでおこうという態度ではない。すでに持っているフレームにあてはめて単純化するのではなく、多層な現実を複雑なものとして理解しようとすることはできないだろうか。

 

唯一、彼らのいうとおりであると思うのは、「現実にはたくさんの解決されるべき問題がある」ということだ。現実は不完全であり、ときに悲惨である。しかし、その前提を共有してなお、なぜその問題のためにアメリカにいる大袈裟さんを、「行動した報いだ」とでもいうように笑うことができるのか。仮に、今回の大袈裟さんの行動がまったくの間違い、失敗だったと仮定したとしても、「だから行動しなくて正解だった」と頷きあうことが何を生むのか。「現実」を見ようとしているのは、そして、問題を解決しようとしているのはどちらなのか。

 

 

最後に、大袈裟さんに誹謗中傷を送っている人の中には、ある政治的なポジションに立っているゆえにそうしている人も多い。これはわたしから見ると単純にばかばかしい。大袈裟さんが支持している思想が唯一ヒップホップのみであるということを友人として知っているからである。

今回アメリカに発ったのと同じ反射神経で、彼はかつて香港にも発ち、沖縄に至っては移住している。そしてつねに赤字である。彼が政治的なポジショニングやビジネスで行動していると思っているとしたら単に的外れだ。彼はただヒップホップの表現者であるがゆえに反射でもって弱者の側に立ち、反射でもって個人として表現しているだけなのだ。脊椎にヒップホップが染みついたそのすばやさのことを、わたしはとても尊敬している。

6/22に書かれた大袈裟さんのアメリカ現地レポートを紹介しておく。

「どこからきたの?」と聞かれ「日本からだよ」と言うと、また湧いた。僕の3倍は体重がありそうな黒人のおばあ様が涙を浮かべて寄ってきて「あなたに感謝のハグをしたい!だけど今はCOVID-19があるから握手してもいい?」と聞かれた。「もちろんだよ」と握手を交わした。硬くざらざらして、しかし温かくやさしい手だった。

彼がこんなワンシーンを、いうまでもなく「現実」として書きとる書き手であることを、まずは知ってもらいたい。

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