くじら糖

Anti-Trench 向坂くじらです ある程度まとまった分量のことをかきます

現実を見ようとするとは。大袈裟太郎さんに向けられた誹謗中傷への応答

現代記録作家でラッパーの大袈裟太郎さんが、取材先のCHOP(Capitol Hill Organized Protest)で暴行を受けた。彼はツイッター上に動画をアップロードしてそのことを報告している。以下に、当該ツイートとともに、動画で語られている内容の全文を書き起こす。

 

 

(以下書き起こし)

いま突然あの、ふざけて近寄ってきたと思った黒人男性にボコボコにぶん殴られて、ダッシュ、走って、逃げてきました。一応あの、ゲートキーパーとかに許可とって撮影してて、全然その、殴ってきた男性の写真も全然撮ってなかったんですけど、急に5,6発ボコボコにぶん殴られて、まあでもあのボランティアの人とかが集まってきてくれて、氷とか渡してくれて、あの一部そういう、薬物とかで、ちょっとinsaneというか、狂ったやつもいるから、本当に申し訳なかったって言って、いろんな人が謝ってくれて、ハグしてくれて、っていう感じですわ。(息切れ)CHOPに来て多分15分、滞在15分くらいで、ボッコボコにぶん殴られました。ちょっと、次からちゃんとずっと映像回しとこう、こういうことあるから。まあでも本当に、他の大多数の人がものすごい優しくケアしてくれて、マスクまでくれて、俺今日は帰るけど明日も来るよっていって、来るからっていったら、本当申し訳なかったなあって言って、抱きしめてくれたんで、はい、どうにかやっていきます。すいません、ちょっと現状報告でした。ありがとうございます。

(書き起こしここまで)

 

取材の背景には、白人警官が黒人男性を死なせた事件に起因する抗議運動によりシアトルの一地区から警官が撤退し、住民による自治区「CHOP(Capitol Hill Organized Protest = キャピトル・ヒル組織的抗議)」が生まれたこと、さらにそこで銃撃事件が起きたことがある。大袈裟さんは6/2に日本を出発し、6/4には白人警官による殺害事件が起きたミネアポリスに到着6/11にはホワイトハウスで行われるデモの取材のためワシントンDCに移る。6/21にCHOPで起きた銃撃事件の報を受け、6/22にはCHOPに入っている。暴行はその当日に起きている。

 

現在、暴行をきっかけに、大袈裟さんはSNSまとめサイトでの誹謗中傷を受けている。これ以降をフェアに書くため、読んでもらうために先に明言しておくと、彼はわたしの先輩にして友人である。そしてこの記事は誹謗中傷に対するリアクションとして書いている。

 

誹謗中傷の多くは、大袈裟さんが暴行を受けたことに対する嘲笑だ。

大袈裟さんのツイートにある「今から帰ります」という文面を、取材自体を取りやめるかのように誤読し、的外れに笑いものにするコメントも多い。また、動画で大袈裟さんが語っている「ケアしてくれた大多数の人」の存在を踏まえずに抗議活動を暴力的なものとして批難するものも目立つ。

そのため、この記事ではまず動画の書き起こし全文を掲載した。大袈裟さんは起きたことを言葉にする責任を果たし、さらに情報を後出しにせず一手で発信しているにもかかわらず、断片的な情報だけで誹謗中傷が行われるのはおかしい。実際、大袈裟さんは動画の中で語っている通り、翌日にはCHOPに戻り、取材を再開している。

 

また、大袈裟さんが暴行を受けたことそれ自体の事実性を疑う誹謗中傷もある。「殴られたときにちょうどよく氷を持っているわけがない」「氷で押さえていた箇所と翌日手当てしている箇所が違う」というような、"目ざとい指摘"調に書かれているものだ。氷に関しては、上記同様動画を見れば「現地のボランティアがくれた」と説明されているし、怪我の箇所については氷で押さえていた箇所以外にも負傷があったというごく単純な話にすぎない(氷で押さえていた箇所にも手当てはされている)。

それ以上に、大袈裟さんがミネアポリスの取材から徹底して「Black Lives Matterは暴力を肯定しているわけではない」と発信していたと知っていれば、わざわざ自分が暴行を受けたと騙る動機がないことは容易に想像がつく。むしろ、暴行を明らかにしたことが、彼の事実に対する誠実さを裏付けている。

 

 

ここまでは事実を前提にすれば不当な誹謗中傷であるとわかる。単なる情報の不足、無知によるリアクションだ。

 

しかし、それ以上に多く目につくのが、大袈裟さんの立場を冷笑するコメントである。

総括すると、彼らは「『Black Lives Matterは暴力を肯定していない』と言いながら殴られているなんて滑稽だ」、「黒人のために取材に行って黒人に殴られているなんて無様だ」というようなことを言っている。

まず第一に、ある暴力を受けた人を、暴力を受けたことそれ自体によって嘲笑してはいけない。それはいけないことだ。暴力を受けた人を嘲笑の対象にすることは、そもそもそれ自体が暴力の再生産であることに加え、「暴力を受けたと声を上げてはいけない」というメッセージを暗に発することでも結果的に暴力を肯定する。これはどんな暴力であっても同様で、また暴力の正当性や合理性とはまったく関係がない。ここまでは最低限のことではないか。

 

そして、この記事で考えてみたいのは、時に彼らのいう「現実」とはなんだろう、ということだ。

誹謗中傷の中には、「これが現実」「現実を思い知らされましたね」「きれいごとではなくて現実を」というような文言が非常に多い。ようは、彼らのイメージする「平和のために(考えなしに)活動している人には対処できないほど暴力的で、悲惨な現実」もっと言えば、「いかに歩み寄ろうと、他者同士はわかりあうことができないという現実」を、大袈裟さんが受けた暴行のなかに見ようとしているのだ。

しかし現実とはなにか。大袈裟さんがこれまで発信してきた、平和的なプロテストのために尽力する人たち、抗議活動で踊る人たち、殴られた大袈裟さんに駆け寄って氷とマスクを手渡してハグした人たちの存在を勘定に入れずに、なぜ暴力のこと、無理解のことだけが現実と名指されるのか。現実と呼ぶべきものはもっと多層で、複雑なのではないか。

良いことだけを見ようという楽観の態度ではない。大袈裟さんが暴行を受けたこともまた事実であり、しかしそれだけでは解釈しきれない多層な事実が並行して存在する、という当たり前のことを言っているだけだ。それだけのことに、どうして目を向けられないのか。

 

悲惨なことだけを現実と呼ぶ、という行為はさらに、言葉の側から現実を規定してしまう。現実の厳しさのようなものを言葉でもって代弁しようとするとき、その言葉こそが現実の厳しさそのものなのだ。「現実は厳しいものだから」「他者はわかりあえないものだから」というとき、まさにその発語が現実を厳しいものにしている。なぜ、悲惨なことを安易に現実と名づけてわかった気になったまま、その言葉を疑おうとせず、さらには他人に押しつけようとするのか。なぜすでに持っている言葉を更新し、それによって現実を更新することができないのか。

繰り返すがこれは悲惨なことは見ないでおこうという態度ではない。すでに持っているフレームにあてはめて単純化するのではなく、多層な現実を複雑なものとして理解しようとすることはできないだろうか。

 

唯一、彼らのいうとおりであると思うのは、「現実にはたくさんの解決されるべき問題がある」ということだ。現実は不完全であり、ときに悲惨である。しかし、その前提を共有してなお、なぜその問題のためにアメリカにいる大袈裟さんを、「行動した報いだ」とでもいうように笑うことができるのか。仮に、今回の大袈裟さんの行動がまったくの間違い、失敗だったと仮定したとしても、「だから行動しなくて正解だった」と頷きあうことが何を生むのか。「現実」を見ようとしているのは、そして、問題を解決しようとしているのはどちらなのか。

 

 

最後に、大袈裟さんに誹謗中傷を送っている人の中には、ある政治的なポジションに立っているゆえにそうしている人も多い。これはわたしから見ると単純にばかばかしい。大袈裟さんが支持している思想が唯一ヒップホップのみであるということを友人として知っているからである。

今回アメリカに発ったのと同じ反射神経で、彼はかつて香港にも発ち、沖縄に至っては移住している。そしてつねに赤字である。彼が政治的なポジショニングやビジネスで行動していると思っているとしたら単に的外れだ。彼はただヒップホップの表現者であるがゆえに反射でもって弱者の側に立ち、反射でもって個人として表現しているだけなのだ。脊椎にヒップホップが染みついたそのすばやさのことを、わたしはとても尊敬している。

6/22に書かれた大袈裟さんのアメリカ現地レポートを紹介しておく。

「どこからきたの?」と聞かれ「日本からだよ」と言うと、また湧いた。僕の3倍は体重がありそうな黒人のおばあ様が涙を浮かべて寄ってきて「あなたに感謝のハグをしたい!だけど今はCOVID-19があるから握手してもいい?」と聞かれた。「もちろんだよ」と握手を交わした。硬くざらざらして、しかし温かくやさしい手だった。

彼がこんなワンシーンを、いうまでもなく「現実」として書きとる書き手であることを、まずは知ってもらいたい。

shinsho-plus.shueisha.co.jp

 

会ったことあるひと死んでしまった

2019.05.19

日記

 

 

会ったことあるひとが死んでしまった。

「友だち」ということばを使うのが苦手で、「知りあい」とか「こないだ会ったひと」とか「付き合いのあるひと」とか、あとはまあふつうに「◯◯さん」とか、てきとうにごまかしてしまう。じぶんが「友だち」と呼びたくても相手がそう思っているとはかぎらないし、もしお互いそう思っていたとしても、「友だち」と呼んだ瞬間になにか関係が固定されてしまうような気がして、まごまごする。

そのひとのことも「友だち」と呼びづらい。もしそのひとが死ななくてもこれからも、少なくともあと何年かは呼ばなかったと思う。

 

「亡くなった」ということばもうまく使えない。
五年くらい前に自死をえらんだ友だちのことも、わざと悪ぶるみたいに「死んだやつ」「死んだ男」と呼び捨てがちで、子どもっぽいなあと思うけれどなおらない。「亡くなった」なんて、死のことを懐紙でつつむみたいで、いやだ。照れくさくて、口惜しくて、落ちつかない。

仲良くしているひと、でも、よく会うひと、でも、かといって知らない女の子、でもなく、まあ、会ったことあるひと、くらいかな、というひとが、死んでしまった。

 

 

きょうはそのひとのための会があったらしく、わたしはそれを、広く告示されるよりも前から知らせてもらっていたのだが、いけなかった。単に用事で遠方にいたのもあるけれど、それよりもなんとなく、いけなかった。(ほんとうにどうしても行きたいと思ったらいくらでもどうとでもできたはずだ)もしも行ったら、わたしはまちがって「友だち」といったり、だれへの配慮でもないのにぺろっと「亡くなった」といったり、それに類することをするだろうと思った。血が通っている唇のなんと軽いこと。

会に行くであろう、わたしを知っているひとの顔も何人か浮かんで、わたしがなにも感じていないように思われるのはいやだなあと思った。でも、べつに、それを理由に行くのもへんだし、他人にどういうふうに思われたいとか、そういうこと自体がそもそもどうでもいいことだった(この文章が弁解らしくなっているのもいやだけど、でもそういう面もあるのかもしれない、会があったことを思って書きはじめたものだから)。

 

 

そのひとが死んだ報せを受けた直後、少しのあいだ、思春期のころ死が持っていた引力を思いだしてしまって、困った。いまはどちらかといえば死にたくないとはいえ、生きていることのほうが不自然に思えて、たまらなかった。そのひとが死んだということに納得がいかないあまり、じぶんが生きていることにも納得がいかなくなった。望んでいるかどうかにかかわらず、死ななければいけないような気がした。

知ってから何分かあけていきなりヒーンと泣き、そのあと涙で腫れた目をいやすために冷水で顔を洗い、そのあと、そのあとだ。そのあと、化粧水を塗って、あしたに備えてしまった、それが、そのときほんとうに最悪だと思った。

 

そのあと、とっさに、共通の知り合いで強く影響を受けそうなひとに連絡をとって、生きていてねというようなことをいった。それは自分にしては建設的な行動でもあったが、その局面で建設的であることは重要だったんだろうか?
「せめてあなたには死んでほしくない」という気持ちが、かんたんに「ふたり死ぬよりはひとり死ぬほうがいい」と言い換えられてしまうのは、すごく怖い。でも同時に、でも、「あなたには死んでほしくない」はほんとうに、ほんとうである、とも、思う。

 

 

訃報の翌日、目を血走らせて百円寿司を食べた。
わたしが死んだら、わたしに死なれたひとが、いまのわたしと同様に死のほうへ引っぱられるかもしれない。それを予期して恐れ、どうにか人生に踏んばろうとしていたのだった。へんにごはんを抜いてしまったら、またへんに高価なものを食べたり過食をしたりしたら、じぶんを生かそうとする体力が弱まる感じがして、それで、百円寿司だった。まぐろを四貫と、茶わん蒸しと、味噌汁を食べた。

 

ひどくぼんやりしながらも、「わたしが生きるか死ぬかということは、わたしだけの問題ではない」ということを、強烈に感じつづけていた。
関係に序列をつけるわけでもないけれど、血のつながりもなく、ふたりでゆっくり話したこともない、「会ったことあるひと」が死んだことさえも、すこしは、わたしの問題でもあったのだ。わたしが死んだら、それは、けっこうな数のひとの問題になるんじゃないだろうか? ありがたいことに、そして、重たいことに。

そのとき、そのことが明確にわたしの生命を守っていたと思う。

わたしの生命はわたしだけの問題ではない。

 

 

そのひとは遠くに住んでいたのでほんとうに何回かしか会ったことはないが、一度長いメッセージをもらったことがある。「正直あなたのことが苦手です」とはっきり書かれたメッセージだ。

わたしの書く文章やふるまいが、「大人らしさ」にすぎないと指摘し、「薄い氷の上を歩くよう」だと評した上で、「消費されないで、もっと自分を労って生きてください」なんていう。

わたしはそれがけっこううれしかった、そんなふうに正直になってもらえることなんて、人生に数えるほどしかないのではないだろうか。

メッセージはこうしめくくられる。

「きっと10年後もお互い続けていられると良いと思っています。
その頃にはなんか、漸く、おしゃれで大人なイタリアンバルとか知ってて、一緒に行けたらうれしいです。
でも、大好きだよー」

いま読むと、はあ? と思う。ほかは依然としてうれしい、いかに苦手だといわれていてもうれしいが、こればっかりは、はあ? だ。
わたしもそう思っていた、いや、イタリアンバルじゃなくてもべつにいいんだけど。

 

 

わたしが訃報を受けて真っ先に連絡した「強く影響を受けそうな知り合い」のうちひとりには、そのあと会いにもいった。そいつは死んだひととの縁が深く、たぶん苦手とも思われていないし、「友だち」とも呼べるのかもしれない。

会いに行ったら、そいつはなんだか知らないが訃報にめちゃくちゃ怒っていて、びっくりした。たしかきょうの会にも行っていないんだったと思う。
なんで怒っているのか聞いたはずだったけれど、ほとんどわからなかった。ひとは訃報に対して、怒ることもできるのかあ、と思った。

 

 

とかいっていたら先日、まったく関係ない幼なじみから、いまから死にますと電話がかかってきた。一度かかってきて切れてしまったので、ありえないほどリダイヤルして、ようやくつながったとき、わたしも幼なじみもしんしんと泣いていた。

わたしは覚えたばかりの理屈で、「だからね、◯◯ちゃんが生きるか死ぬかっていうことは、わたしの問題でもあって、◯◯ちゃんだけの問題じゃないんだよ!」といってみたが、幼なじみは「勝手なこといわないで、親にも恋人にも死ぬなっていわれるから、くじらちゃんだったらそんな勝手なこといわないと思って電話かけたのに」と怒るばかりだった。

もうそうなると説得もなにもなく、「なんでもいいけどわたしは死んでほしくないんだよ……」と訴えるしかできない。
最終的には母を経由して幼なじみの親に連絡をするという無慈悲な手段をとり、幼なじみは「しょうがないな〜、じゃあ『今日は』死なないことにするよ」などと悪態をつきつつ実家に輸送された。

 

 

けっきょく、わたしはゆるやかに死の引力から逃げのび、とりあえずふつうに暮らしている。怒っていたやつはどうだろう、まだ怒っているかもしれない。

きょうもけろっと元気に過ごしていたが、これを書いていたら急に涙が出てきてびっくりした。
すっかり忘れたようにしているけれど、一切思い出さないのはむずかしい。都合よく、たまにままならず、忘れたり、思い出したりして、暮らしている。

ぜんぜん終わったことにできてはいない。
死ぬことは取り返しようがなく、どうしようもなく終わった問題だけれど、わたしの問題としてはぜんぜん終わっていない。むしろはじまってしまったといえる。いなくなったことによって、「いない」がはじまった。

ふしぎなことに、その「いない」が、そのひとがわたしのなかからまったく消えてなくなることを、なんとか防いでいる。

 

 

この断片的で些細なメモのようなものは、まちがっても追悼ではない。ましてそのひとのためでもなく、かといって、断じてわたしのためでもない。
ただ、書きはじめてしまった。書き終えた感触がないまま、ここでいったん書くのをやめることにする。

大学受験だけは裏切らないと信じていた

 

情けないがことばを失っている。

なにを語り、書けばいいのかわからない。

 

「東京医科大 女子受験者の点数を一律10%以上減点の年も」 NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180802/k10011560911000.html

 

東京医科大学の入試で、女子の合格者数を抑制するために、女子の点数を一律減点していた。
受験要項にはその旨は書かれておらず、女医の離職防止策であるという。


わたしは、女性であり、元・大学受験生であり、塾の講師でもある。

 

そのどの立場からも、この問題に関してはげしい感情が噴出してくる。けれど、うまく語ることばをもたない。ただひとえに、大きな無力感がある。
自分が信じ、支えにしてきたものが、一撃で無力化されたような気さえする。

 

しかし一方で、なにかを書かずにはいられない。
いくら声をあげることが無力だとわかっていても、声をあげなければいけないときがあるとしたら、わたしにとってはそれがいまだ。いくらたくさんのひとが既にこの問題を批判していたとしても、わたしはわたしの声をあげなければいけないと思える。

 

だから、ここではただ、自分の個人的な経験だけを、それがいくらかは普遍的な経験であることを祈りながら、書いていくことにする。

 


 


大学受験に救われたと思っている。

 

わたしは慶應義塾大学文学部に現役で合格し、卒業している。
けれど、高校二年生まではいっさい勉強ができず、英語と歴史の偏差値は30台しかなかった。

 

勉強ができなかった理由として、そもそも学校というコミュニティになじめなかったことが大きい。当時のわたしは、友だちもおらず、ときに半ばいじめに遭い、ときに問題行動を起こして親を呼び出され、ついには停学騒ぎになっていた。
学校にいやけがさしているのに、学校の成績をよくしたいと思うわけがない。学力は下がる一方で、国語以外ほとんどの教科が留年寸前だった。


それで、つねにどこかで自分のことをあきらめていた。
いい大学に入りたいとも、そして、生きつづけていたいとも、まるで思っていなかった。

 

受験塾の恩師と出会わなければ、いまでもそのままだったか、あるいはもう生きていなかったかもしれない。大げさに聞こえるかもしれないけれど、自分があのころ命の危機に瀕していた、ということに、わたしははっきりとした実感をもっている。

 

恩師は、いまひとつやる気のないわたしを、

 

「『受験勉強』はもっとも報われやすく、かつ学歴という形でこれからの自分を守ってくれる努力だ」

 

と諭した。

 

「とくに、きみのような社会に適合するのが苦手な人は、受験以外では戦いづらい。でも、受験では戦える。適合しなくていい、勉強すればいいだけだから。いまのうちに勉強して学歴を身につけておかないと、就活で負けて終わりになってしまう」

 

それに納得し、勉強をはじめてみると、そのシンプルさに幾度となく助けられることになった。

受験勉強はひたすら、

 

① 正しく勉強をすると理解していることが増え、
② 理解していることが増えると点数が上がり、
③ 点数が上がると合格する可能性が上がる。

 

という当たり前の積み重ねと検証が大半を占める。


これが非常にわかりやすい。
もちろん、そのシンプルさに苦しめられることも多々あったのだが、それでも学校に通うことにくらべればよほどましだった。
とにかく、誰かの恣意的な評価を押しつけられることを拒み、明確でわかりやすい目標に、自分自身の努力によって、明確にわかりやすく向かっていける、という解放感があった。

 

大学受験はわたしにとって、誰もが同じ基準で戦わせてもらえる唯一のフィールドだった。

 

もしかすると、受かったからそう言えるんだ、と思うかもしれない。

努力が報われた人間だけが努力を肯定する、という構図は、受験以外でもよく見かけるし、だいたいの場合どこか痛々しいものだ。

 

けれど、わたしが受験生として真に得た喜びは、「努力が報われた」ことによるものではない。

あえて言葉にするのであれば、「努力の結果に対し、責任をとる覚悟ができた」ことの喜びだった。

 

実際、どれだけ努力を重ねたとしても、本番の数十分で失敗すれば、すべて水の泡になってしまう。たとえば、使いつぶしたペンの本数や、解き終わった参考書で建てた山の高さは、合格の基準には数えられない。本番の点数がすべてだ。
ある意味で、受験勉強は、努力を容易に裏切りうる場でもあった。

 

そうでありながら同時に、合格に必要なものは自分の努力以外のなにものでもありえない。
わたしは受験勉強に命を救われたと思っているけれど、ではもしもあそこで不合格だったら、やはり努力は報われないのだ、と悲観し、自分のことをあきらめたままだっただろうか?
きっと、そうではなかったと思う。
矛盾するように聞こえるかもしれないけれど、努力し抜こうと決意していたからこそ、「報われなかったならそれは自分の努力が足りなかったのだ」ということを、わたしはなんらかのかたちで受け入れられたような気がするのだ。

 

これは誇りだ。

努力の結果に責任をとる覚悟をする、ということは、まちがいなく誇りを持つことだった。

自分の人生は自分で進めていくという誇り。他人の恣意的で定性的な評価ではなく、公正で客観的な評価を頼りにするという誇り。

 

わたしは大学受験によって、すこしは自分をあきらめずにすむようになった。

 


 


それで、きのうからずっと、自分が大学受験に落ち、その理由がテストの点数や努力の如何ではなく「性別」だったとわかる、という世界のことを考えている。

 

それは、自分の努力不足で受験に落ちることとは、まったくちがう。正反対だといってもいいくらいだ。

わたしにとって大事だったのは、大学受験が、「誰もが同じ基準で戦わせてもらえるフィールド」であることだった。それがうれしかったし、努力する動機にもなった。

「公正で客観的な評価が行われている」という大前提があってはじめて、誇りをもって自分の努力不足を認めることができる。その結果を引き受け、さらなる努力へと進んでいくこともできる。

 

でも、もし、わたしがあそこで落ちていて、その理由が「自分が女だったから」だとわかったら、そこでどれほど苦しみ、絶望することになっただろう。

 

その事実からは、「お前は公正な評価を受けるに値しない存在、報われるに値しない存在なのだ」というメッセージを受け取らざるをえない。努力しようと決意する誇り、また自分の努力不足を引き受けようとする誇り、なんてものは、そこであっけなくかき消される。そのくらい強烈なメッセージだ。


そして、そこから「お前は希望を持って生きていくのに値しない存在なのだ」というメッセージを読み取るに至るまで、そこまでの飛躍は要さないと思う。

 

それをどれほどくやしく思おうが、自分の身体や戸籍や性自認が女性であることは変えられない。
そうなったとき、わたしは、あのころの、死に瀕していたわたしは、女性でしかいられない人生を、それでも生きつづけることを選べただろうか。

 

またつぎに、逆を考えてみる。
自分の合格が、点数は足りなかったのに、性別を理由にもたらされたものだったとしたら?


それさえも、「お前の努力には(性別ほどの)価値がない」というメッセージに他ならない。合格させてもらえたんだからよかった、ではない。このことが、「下駄を履かせてもらった」側である男子のことをも、性別によって軽んじ、ばかにしているということを忘れてはいけない。

わたしはおそらく、「自分が性別によって下駄を履かされた」ということも受けいれがたかっただろう。

 


わたしの受験はごく個別のケースにすぎないかもしれないけれど、でも、そういう受験生がどこかにいることを想起せずにはおれない。

 


 


受験塾の講師として、医学部受験生を教えたり、話を聞いたりすることもよくあった。医学部にはほかの学部よりも多浪が多い。だから、と何年も浪人して医学部を目指していると、「○浪したのだから医学部じゃないと」と、どんどん退路を断たれていく。

また、親との折り合いでどうしても医学部へ行かなければいけない、という学生とも何人も会った。ときには、家庭教師で受け持っていた小学生の親に、「どうしても医学部に行かせたいんです」と相談されたこともあった。(これを、親の言うことなんて気にしなければいい、と一蹴してしまうわけにはいかない。親の承認を受ける、ということ自体が、受験生自身にとってなにかしら必要なことになっている場合も多い。)

 

「医学部じゃないと」と思いを傾けて医学部を受ける学生は、ほかの学部にくらべて多いような体感がある。もちろん、その中には男の子も、女の子もいた。
去年、東医に落ちた女の子も、知っている。

 


大学受験だけは裏切らないと信じていた。


だからこそ、いままでしてこなかった努力に身を預けることができたし、その結果に対してはっきりと誇りを持つことができた。


くじけそうになる受験生を、「でも、この課題はあなたの力で打破することができるんだよ!」とはげまし、本番で最高のパフォーマンスを発揮することだけを願って受験に送り出すことができた。


いまはただ、ただ、悔しい。

二度とビームは撃たない

 

高校生のころ夢日記をつけていた。

好きなゲームの影響で、熱狂的に明晰夢が見たかったのだ。そのためには夢に対して意識的にならねばならず、それには夢日記がもっとも効果的だ、と、オカルトサイトで読んだのがきっかけだった。夢日記をつけると気が狂うとも書いてあったけれど、まあ、それもまんざらじゃなかった。

 

結果、自由気ままってほどでもないけれど、いまでも他人よりは夢のあつかいがうまいと思う。
明晰夢を見るのに絶対必要なスキルに「夢のなかでここが夢だと気づく」というのがある。というかその状態を明晰夢という。そのために、「これができたら夢だ」と判断できるファクターを持っておく、というのが、明晰夢を見るための定石である。
定番は「空を飛べたら夢だ」というやつで、これは落ちる系の夢を多く見る人と相性がいい。まず、落ちはじめたときに「落ちてるってことは夢じゃないか?」と疑う。そして飛んでみる。飛翔でも浮遊でも滑空でもイメージはなんでもいい。だって夢なら飛べる、飛べたら夢だ。そうしたらもうようこそ明晰夢の世界へって感じで、あとは思いのまま。

わたしはわりと落ちる系の夢をみるのでこれを採用してもよかったのだが、問題として、現実で「ここは夢だ」と誤認したときに飛び降りて死ぬリスクがあった。
明晰夢に必要なスキルその二、あきらかな覚醒時でも、「いま、ひょっとして夢かな?」と疑いまくる。これも重要だ。いくら荒唐無稽な夢でも、見ている最中は現実きぶんでいるものだ。だから、これ以上なく現実きぶんのときだろうが、定期的に、自動的に、夢かどうか疑うくせを日頃からつけておく。これをストイックに習慣化するほど、夢のなかでもその可能性に気が及びやすくなる、そして、同時に誤認のリスクも上がるのである。夢だと思ってました、で飛ぼうとして死んだらほんとうに狂人だ。

 

なので、「ビームを撃つ」を選んだ。
ビームだ。きいろい光線。夢のなかでは、口をぱかっとひらくとたちまちビームが射出され、窓やなんかを貫通する。ことにした。現実で多少口をあけてもまあ、大丈夫だし、わたしは現実では絶対にビームは撃てないから安心。夢のなかでは、撃てる。口の直径そのままの光線が、無機質に周囲を照らしながら、パスーン、と、なんであろうと口の直径そのままの穴をあけてふっとばす。

 

ちょっとでもおかしいな、と思うと、口をあける。
野生の虎が自宅のまわりをうろうろしている。? おかしい。ぱかっ。撃てた! 夢だ。ビームで虎を撃退する。
ベッド脇のぬいぐるみに足がふえている。? ぱかっ。撃てた! 夢だ。ベッドを抜け出して窓から飛び立ち、夜空へ繰り出す。
保健室の天井のもようが、水にまるく浮く油のように動いている。? ぱかっ。撃てない。夢じゃない。わたしがおかしいだけ。
古文の教師がメイドの格好で教壇にあらわれる。ぱかっ。撃てた。夢だ。
真冬、渋谷のど真ん中の路上にクロアゲハの死体。ぱかっ。夢じゃない。これ夢じゃねえのか。
筆箱の中身が一本たりない。ぱかっ。夢だ。
枯葉が一枚だけ不自然にくるくるまわっている。ぱかっ。夢じゃない。
クラスの女の子がわざとわたしの机にぶつかり、シャーペンの線がぶれて罫線を逸脱する。ぱかっ。夢じゃない。ぱかっ。夢じゃない。ぱかっ。ぱかっ。
バスはゆれているのに、外の景色が止まったまま動かない。ぱかっ。夢じゃない。
好きな現代文の先生がわたしじゃない子をひいきしている。ぱかっ。夢だ。だよねー。
不条理とまぼろしとに馴れあった十七歳のわたしの暮らしに、この習慣はあっさりと根づいた。わたしは月に数回のペースで明晰夢を見ることに成功し、校舎に何回も穴があいたり、あかなかったりした。

 

そのうち、ある実感に至る。
夢日記をつけると気が狂う」といううわさは、たぶん、本当だ。
本来、夢は見るそばから忘れていくはずのものなのだろう。それをわざわざ書きのこし、記憶にとどめておくことの、瑕疵、みたいなものが、次第に日常を侵食しはじめた。いま現在が現実か夢かわからなくなる、という事態こそビームのおかげで起こらなかったが、問題は思い出だった。過去あったことを思い出すとき、本当にあったことも、夢で見たことも、同じように思い出せる。それが、現実か夢か、まったく区別がつかないのだ。
これはよくなかった。かつて喜んだことや悲しんだことがすべて曖昧になってしまうのをおそれ、また大学受験で忙しくなったこともあいまって、わたしは夢日記から手を引いた。同時に、逐一夢かどうかを検証するくせも、ゆるやかにやらなくなった。



大学を卒業したいまでは、前述したとおり、「他人より多少夢のあつかいがうまい程度」に落ち着いている。夢のなかでも走れる。入眠時、意識を落とさないまま夢に入っていくことができる。追いかけられる系の怖い夢では、基本相手を倒すことができる。

ただ、歯が立たない相手もいる。
好きになった人、死んだ人、縁が切れた人、は、いやな夢の常連だ。彼らが出てくるとうんざりする。夢のなかで気づいて対抗するほどの不快感はないが、だからこそ起きてからじわじわとダメージが深くなる。夢で仲良くなんてしていようものなら最悪。三日くらい引きずる。

 

そのひとり、大学に入る直前に絶交した友だちの話をしたい。
彼女は頭のいい子だった。成績も振る舞いもいいタイプ。理系で、自動車が好きで、エンジニアになる夢を持ち、国立大学を目指していた。極端な文系だったわたしは、自分にないものを持つ彼女を尊敬し、あこがれた。ふたりとも小説を書く趣味があり、ときどき帰り道をいっしょにすごした。
その彼女が、高校三年生で急に文転した。なんのことはない。倫政の若い教師に恋して、彼の卒業校で教師を目指すことにしたらしい。おもしろくない。本当におもしろくない話だと思った。彼女の進路が決まったころ、メールで教育について語る彼女にわたしが噛みついて、つまらない口論をして、それで、終わりだった。
数ヶ月に一度くらい、彼女は夢のなかにあらわれる。いまの彼女のことをなにも知らないから、高校のころの姿で。都合のいい夢だ。わたしは謝り、彼女は赦す。やにわに目を覚ます。まただ。また同じ夢を見てしまった、と思う。

 

大学の友だちに連れられて行った飲み会で、彼女と再会する。
やっぱり高校のときと変わらない姿で、すこし離れた席にすわっている。そんなはずはない、どうして、連れてきた友だちを問いただすと、もともと知り合いだったんだよ、友だち? などといわれる。
当の彼女はわたしに気づいているのかいないのか、なぜか先に店を出ていってしまう。あわてて追いかける。
「待って、行かないで」
そこでようやく目があう。店の入り口から洩れる灯りが、彼女の横顔を照らす。
「ごめん、怒ってるよね、ずっとちゃんと謝りたかったんだよ」
困ったような顔で押し黙っている彼女を前に、わたしは立ったまままくしたてる。あのとき、本当にごめん、本当に、ずっと後悔してた、きみと仲直りするのを何回も夢に見たくらいなんだ、そこでハッと気づく。
そうだ、そうだった。わたしはさんざん夢に見て、さんざん最悪の朝を迎えてきた。はげしい既視感。まさか、これも。目の前の光景がにわかに現実味を失いはじめる。やばい、でも大丈夫。そう、こういうときどうするか、習慣こそなくなったものの、まだ身体がよく覚えている、
ぱかっ。
その瞬間、目の前で彼女の顔が、口の直径そのままの穴をあけて吹っ飛んだ。ご丁寧に、返り血がぴしゃりとわたしの顔に跳ねかえる。


撃てた。


二度とビームは撃たない。飛び起きたベッドのなか、肩で息をしながら、わたしは誓う。二度とビームは撃たない。



電車のなかにカナブンが迷い込んでいる。電灯にぶつかってはぜるような音をたてる。

告白を断った男から連絡が来る。
肩に鳥の羽がくっついているのを見つける。
ベッドがまるごと水に浮かべたように揺れている気がする。
雨が降るなか傘をとじたまま提げた女性とすれ違う。
母と弟が怒鳴りあっている。
蛍光灯が切れかかっていて眩暈がする。
友だちがマルチにハマる。
家の中に貝殻が落ちている。
指先が見覚えのない黄色に染まっている。
ふとつらかったことを思い出す。
排水溝にありえない量の髪の毛が詰まる。

わたしはそれらすべてに唇をむすんで耐える。夢か現実かわからなくなることが、いまだにときどき訪れる。
もう、あまりわかりたいとも思わない。

紅茶の甘いののつめたいの

採用面接で一緒になった女の子が、「途上国に留学したことで、今まで持っていた『貧しくてかわいそう』というイメージが払拭され、『貧しいのに生き生きと暮らす人々がいる』ことを知りました」と話していた。私は留学経験がないのでわからないけれど、たぶん本当に心からおどろいたんだと思う、それが伝わってくる口ぶりだった。

 

貧しいからかわいそうなのではない、のと同時に生き生きしているからそれでいいわけでもない。問題はどこにでもいくらでもある。と、咄嗟に思ったけれど、それ以上に、「にんげんが生きている」というただそれだけのことさえ、私たちはともすると忘れてしまうんだろうか。

 

 

次の面接まで時間があったので上島珈琲に入った。前に並んでいるおじさんがかなりぶっきらぼうな声で注文する、それをカウンターの女の子がみょうに一生懸命な目で見かえしている。

 

「テイクアウトで、ぜんぶおおきいので」
「テイクアウトで、おおきいので」

 

「黒糖のあったかいの」
「黒糖のあったかいの」

 

「ブラックのつめたいの」
「ブラックのつめたいの」

 

女の子はなぜか、メニューを指さすおじさんの指といっしょに、いちいちおんなじリズムで声に出してくりかえす。

 

「紅茶のつめたいの」
「紅茶のつめたいの」

 

「紅茶の甘いののつめたいの」
「紅茶の甘いののつめたいの」

 

「あ、それからこの、期間限定のやつ、つめたいの」
「期間限定のやつ、つめたいの」

 

もちろんぜんぶ正式な商品名とは違うから、たとえば「黒糖ミルク珈琲のアイスですね」と聞き返してもいいところ、最後までそれで通してしまった。
おじさんの投げつけるような口調をコピーしているようにすら聞こえるけれど、でもやわらかい声だ。ちいさな子どもどうしが話しているみたいだった。つい気になってふたりを目で追う。

女の子はそのあと、商品をひとつずつお盆に乗せながら、「黒糖のあったかいの、ブラックのつめたいの」とまた同じことばでたしかめる。

 

「紅茶のつめたいの」
「うん」
「紅茶の、甘いののつめたいの」
「うん」

 

おじさんは相槌だけ打って、お礼もいわずにお盆をつかんで去っていった。


なにかひそやかで大切な場面に立ち会った感じがして、そわそわと女の子を見ると、名札に「研修中」とあった。
そうか、あまり仕事に慣れていないのか。それであのカタコトとカタコトみたいなコミュニケーションになったのかもしれない。
それにしてもあの、かぎりなく優しさに似た声色はなんだったんだろう。

 

なぜかいたく感じ入ってしまって自分のアイス珈琲をしばらく握っていたら、氷が溶けて、ころがる音がした。

 


発展途上国の人たちと日本の大学生が異質であるのと全く同様に、あの女の子とおじさんも異質だったような気がしている。
ゆとり世代だから、私たちひとりひとりがかけがえのない存在である、なんて言われ続けて育った。けれど、それはつまり、私たちのすべてが常に自分の中に異を抱えながら生きていかなければいけないということにほかならない。私はあなたとは違う、そのことが生きる希望になる日と、圧倒的な絶望感に変わる日とある。
それで、想像も及ばない環境にいる誰かのことを、だいたい忘れながら過ごす。「想像も及ばない」というと大げさだけど、想像力はひとりでにどこまでも行ってくれるわけじゃないから、想像が届かないことくらいいくらでもある。私もそうだ。


でも、ときどき他者がぬっと目の前に現れて、どうするかを迫られることがある。

そのときに、飲みものに名前をつけずに、ひとつずつ差し出すことができるか。

たぶん「優しくしてあげよう」と思っていたわけではない、ただ不慣れな接客にいっぱいいっぱいだっただけの彼女が、ふしぎに歌うようにおじさんに応えたこと、あれはまぎれもなく奇跡だったと思う。

そしてそれは、いつでも誰に対してもカタコトで語らなければいけない私たちのための奇跡だったような気がしている。

「楽しいうちに」死ぬことを賢いなんて言わないでほしい - 不確定な未来を生きること

空気を「寒い」というより「つめたい」と感じるようになって、いよいよバイト先の塾が受験期に差しかかった。努力してきたという自覚がある生徒、そうでない生徒、それぞれが気持ちに揺れを抱える頃だ。

 

そんな中、男子生徒のひとりから、「あと一ヶ月では間に合いそうにないから、志望校のランクを下げたい」という相談を受けた。センター試験二日前のことだ。
彼の「いつか学歴で後悔するだろうとは思うんです」というコメントもあって、はじめのうちは「学歴でこんないい思いをしたよ!」という(品のない)話をしようかな、と思いながら聞いていた。が、そのうち気が変わってきた。
それで、「きみがこれから迎える一ヶ月は、これまできみが経験した一ヶ月と同じとは限らない。そして、これは私の個人的な経験則にすぎないけど、たぶんぜんぜんちがうんじゃないかな、と思う」と答えた。

 

受験勉強は、学習自体はもちろん、精神面でもなかなかしんどい。どういう道を辿っていても本番一回ですべてが決まってしまう(そのことについても賛否両論あると思う)、だから終わるまでは何に対しても確信を持てない、ということが、そのしんどさの源であると思う。

 

「過去問で合格点をとれたから本番もとれるだろう」
「あと一ヶ月あれば間に合うだろう」
「いまはできないことも、本番までにはできるようになるだろう」
と、信じるのはなかなか難しい。
これは単にネガティヴ思考に陥るというだけではない。「自分の不足を直視する」ということを、学力を上げる過程で避けては通れないからだ。だから努力すればするほど、「絶対受かる」という確信からは遠ざかっていく。

 

これがなかなかキツい。そりゃあそうだろう。不確定な未来のために努力しつづけなければならない状況に、ときに心が折れそうになることもあると思う。

 

しかし同時に、受験生はその不確定なことに身を預けなければいけない。あと一ヶ月で合格点に到達するとは限らないけれども、それでも到達させなければならない。自分がやり抜けるという確証はないけれど、それでもとりあえずはそれを前提においてみて、今日という日を生き抜かなければならない。
「やればできる」のような安易な精神論に聞こえるかもしれない。でも、そうではない。「やればできる」かは誰にもわからない。それなのに、やらなければできないことだけはほんとうなのだ。

 

そして、このことはときに、希望ではなく絶望としてのしかかってくる。その重みを、私たちは常に知っていなければならない、と思う。


今月の12日に、中学二年生の女の子が自殺したニュースを見た。

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20170113-00000852-fnn-soci

「楽しいままで終わりたい」と遺書に書いたという彼女のことを、ときどき考える。妙に前向きに見えてしまうこの言葉、だがこれに勝る絶望はないのではないか。なにを見、どう考えて、この後の人生は楽しくなくなっていく一方だと確信したんだろうか。
死なないでほしかったと思うことは、私の偽善や身勝手にすぎないんだろうか。

 

そして、SNS上でこのニュースを取り上げては、

「賢い選択をした」
「論理的に正しい」
「なんて幸せなんだろう」
「自分もこうすればよかった」

とコメントする人たちを見た。

 

とても当たり前のことだけれど、未来が常に不確定なのは受験に限った話ではない。
行ってしまった彼女にとっても、きっと未来はいつも不確定で、それを不確定なままちょっと信じてみることが彼女にはむずかしかった。それで、未来は今より楽しくないと結論づけてしまった。

 

それを、本当に正しい選択と言ってしまっていいんだろうか。
私たちは彼女の死を前に、「これから楽しいことはもっともっとあったかもしれないのに、なんでやめてしまったんだ」と惜しまなければいけないんじゃないか。
「確かに大人になってしまったら楽しいことなんてない、だからこれは正しい選択だ」なんて言って彼女を指差すとき、そういう言葉こそが不確定だったはずの未来を黒く塗り込めてしまったことに、せめてもっと自覚的でないといけないんじゃないか。

 

そう、未来はいつも不確定だ。


そして、それが必ずしもいい方に転がらないということを私たちはすでによく知っている。だから、ときどきまったくの悲観に陥ってしまう。

そして、その悲観がときどき、誰かの命を奪ったりする。

 

詩の朗読の日本チャンピオンの大島健夫さんという方がいる。
彼の作品には、さみしい人、見捨てられた人がたくさん出てくる。奥さんを亡くした男、さびれた町の工場で働く男、家族も恋人もなくただ仕事をするだけの男。そのことについて、大島さんに直接尋ねる機会があった。

 

「どうして大島さんの作品にはさみしい人ばかり出てくるんですか?」

 

大島さんはすこし考えて、「基本的にこの世は絶望だけじゃないですか。」と答えた。

 

「絶望からすべてが始まる。そこで環境のせいにしたり人のせいにしたりせずに、どれだけ絶望しきることができるか。そこからがスタートだと思う」

 

いま私たちに必要なことは、何度でも降りかかる理不尽に、何度でも真摯に絶望し、そして何度でもふたたび不確定な未来を信じることのできる力なのではないか。

 

言っても言っても約束を破る人と、きょうも待ち合わせをする。子どものころ、大人になれるかもわからないのにさまざまな夢を見る。その日までに地震が来るかもしれないけれど、三ヶ月後のライブのチケットを予約する。あした死んでしまうかもしれない恋人と、いつか住みたい家の話をする。

 

そういうことを、ばかだと、論理的に正しくないと、誰も笑わないでほしいのだ。

 

とても怖いことだけれど、底の見えない空間に身を投げるように、私たちは不確定な毎日を生き延びていくしかないのだ。そしてそれはときに、まったく諦めてしまうよりも遥かにしんどいことだけど、それでも。

 

私の答えを聞いて、男子生徒はいまひとつ釈然としない顔で「そうですかねえ〜」とか言っていた。彼もまたいつか絶望からはじめていくしかない、それが、私には胸が痛い。結局、学歴がどうのとか勉強効率がどうのとかの話も付けくわえて、彼はなんとか机に戻っていった。
がんばれよ、と思う。

 

がんばれよ。これからきみに起こるかもしれないし起こらないかもしれない楽しいことを、それでも何回でも話すから。

 

がんばろうね。

「逃げてもいい」と言ってもらえる日のために

九月一日、勤め先の塾に来た女子生徒が、私の顔を見た途端に泣きだしてしまった。

 

もともと人付き合いが苦手で、夏休みのはじめには「学校に行かなくていいだけでしあわせ」と大喜びしていた子だった。勉強も苦手だったが、塾に通い始めてから奮起し、勉強してこなかった焦りと戦いながら志望校に向けて努力してきた生徒だ。

もうやだ、とその子はいう。

夏休み中、文化祭の準備に行かなければいけない日が何度もあった。その子もはじめは参加していたものの、だんだん勉強時間をとられる焦りと学校へ行かされるストレスで起き上がれなくなる。
結局、休んで勉強することを選び、始業式で久しぶりに学校に行った彼女は、クラスメイトと担任教諭の双方に責められたらしい。

 

「みんながんばってるんだから、○○さんだけ特別扱いはできない」
「推薦受験の子は○○さんより早く受験なんだから、もっと大変なのに」
「そんなの『わがまま』でしょ」
「文化祭に参加しないと悔いが残る」
「みんなと準備したら気分転換になってちょうどいいんじゃないの?」
「ちょっとでも楽しいと思わないの?」


九月一日は十八歳以下の子どもの自殺率が一年でもっとも高い日だ。
最近ではその事実が広く知られるようになって、「死ぬほどつらいなら学校になんか行かなくていいんだ」「逃げていいんだ」という文言を少しずつ目にするようになった。
わたし自身は、十七歳の九月一日に死線を越えている。
暑さがやわらいでいくにつれ猛烈な吐き気と不眠に襲われたのを覚えている。学校に行くバスをいくつも寝たふりで乗り過ごし、すべてに「死ね」と念じていた。「死にたい」といったらほんとうに死んでしまいそうで怖かった。
そして、そのままなんとなく生きのびた。
とくにきっかけや救いがあったわけではない。一日一日を死にぞこなって、気がついたら死ぬほどでもなくなっていた。


それから六年目になる今年、父がニュースで「九月一日の自殺率」のグラフを見ながら、「へえ。べつに意外でもないけどね」というのを聞く。

 

「え、でも、夏休みが終わるからってことだよ」
「わかってるよ。だから一年で一番憂鬱なのがいつかって言われたら九月一日でしょ」

 

「学校に行きたくなくて死ぬ」というのは父にとってノーマルなことなのか?
動揺していると、テレビから以前夏休みの終わりと共に亡くなった子のエピソードが流れはじめ、それを見た父はつづけた。

 

「あ、なんだ。いじめとかそういう行きたくない理由があってってことね」

 

おどろいた。
あっけらかんとスイカとか食っているこのひとは、もし2011年の晩夏に娘が死んでいたらどう思ったんだろう。
学校はどんな理由があっても行くものだ、高校生の貴重な時間を大事にしろ、友だちをつくる努力をすればいい、と言ったその口で、死ぬなんて思ってなかった、相談してほしかった、と言っただろうか。晴天の霹靂みたいな顔で。

 

じゃあ死んどけばよかったなと一瞬思った。

 


女子生徒いわく、文化祭の準備は十月頭まで続くという。
その間、受験勉強が滞ることが彼女の苦痛になる。勉強を妨げるのが好きなことならまだいい。学校が嫌いな彼女にとっては文化祭も、クラスメイトと協力してなにかを作り上げることそのものも、無意味にしか思えないのだ。

 

「わたしが、受験勉強余裕で、文化祭の準備しても余裕で受かるならよかったよ。でもそうじゃない。いままで勉強してこなかったわたしが悪いって言われたら何も言い返せないけど、でも一般でがんばるって決めたのに」

 

そう言ってまた泣いてしまう。学校休んじゃえば? と言われても、親がそんなこと許さない、という。

 

「学校行きたくない。べつにサボって遊びたいなんて言ってない。勉強したいって言ってるんだよ」

 


彼女が受けているのは暴力だ。
「勉強したいのにできない」という環境は、たとえばその根源が貧困であったり、DVであったり、性差であったり、身体障害であったりしたら、即座に問題視され、改善を求められるだろう。
それなのに、彼女は誰にも救われない。
「学校行事に力を注ぐのは、誰にとっても楽しく、意義あることに決まっている」という押しつけが彼女を傷つけ、追い詰めていることに誰も気づかない。

亡くなった子のドキュメンタリーを見て「そんなに行きたくないなら逃げればよかったのに」と半ば寛容に、半ば冷たく、言える人たちの誰一人として、目の前で苦しんでいる彼女ひとりに「逃げてもいいよ」と言ってやることができない。

いまなら分かる。十七歳のわたしも、そんな風に見捨てられてきた。

 

「学校を休まないと受験勉強が間に合わないのは、いままでサボってきた自分が悪い」と言われてしまうかもしれない。それは確かにそうだ。
しかしその安易な自己責任論は、今までの自分を反省しここからがんばろうと決めた彼女の努力を、決して否定しえない。過去を省みて自らを変えていく努力は、努力の中でもっとも難しく、美しいから。
しかしそのような努力も、否定され続け、阻まれ続ければいずれ折れてしまう。
彼女の努力を無碍にし、「わがまま」と罵る一方で、「仲間と力を合わせること」や「集団に参加すること」、という自分が認めた努力だけ、それも学歴や就職という形で将来につながっていかない努力だけを無責任に押しつける、これが暴力でなくてなんというのか。

 

ふだんは快活なその子が、一歩ずつ死に向かっていくのが見えた気がした。

 

 


じつは、わたしの人生には、「人死なないでほしい」という漠然とした目的のようなものがある。

人生の選択肢に「自殺」が加わった日から、世の中で起こる自殺が他人事でなくなった、とでもいおうか。「学校」という共同体が引き起こす自殺はなおのことだ。あの逃げ場のなさ、「友だちと仲良くするのは楽しいに決まってる」という曇りのない抑圧を忘れられない。
だからいまでも、誰かが制服のまま亡くなるたびに、自分がひとり死んでいったような気がする。

 

それで、毎年九月一日には無力を噛みしめる。今年は特につらかった。大学最後の夏なのもあいまって、わたしは制服を脱いでから何をしてきたんだろうと考えたりした。


でも、一生「自殺予防した」とか「いのちを救った」なんて思えないんだろうな、と、同時に思った。
つながったいのちは見えない。
当たり前のことで、十七歳のわたしは生き延びて、自死予備軍ではなかったことになった。それは何もかも忘れられるようでくやしいけれど、でもわたしの断然たる勝利だ。わたしがたったひとりで持っている勝利だ。
おまえは何も知らずスイカなど食っていればよい。

 

だから、「いのちを救う」ことはいつも結果だ。
事実、わたしも今日その子の涙を見るまで、彼女がそこまで追い詰められていると気づかなかった。彼女に「ちょっとでも楽しいと思わないの?」と聞いて憚らない担任や、学校を休ませてくれない親もそうだろう。
私たちはいつも油断して、そして、失う。


だから常に目をあけていなければならない。そして成果のよくわからない試行錯誤を続けなければならない。すべてが終わったあとに、外側から「なーんだ、大したことなかったんじゃん」と言われながら、ともかく今につながったいのちを慶んで暮らしていくしかない。

 

その中で、死の淵にいる人たちが、
泣きやんですぐ英語の参考書へ向かったきみが、
理不尽に否定されても努力することをやめずにいられるように、そして傷ついたことを見過ごされても生きてゆけるように、わたしたちができることはなんだろうか。


「逃げてもいいよ」と言ってくれる社会は、いつほんものになるだろうか。